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千羽鶴の起源について

 承前。今回は、前のエントリに入れ損ねた折り鶴の呪術・宗教的な側面について漫然と見ていく。といっても、本来は既存の文化人類学ないし民俗学的研究をだらっと貼って適当にコメントして片付けていくつもりだったのだが、予想以上にそういった研究がほぼないらしいことに気付く(新人教員にクリティカルリーディングの指導としてエレノア・コーのサダコ本を使って教えようとしたら、いい話に否定的な見方をしたくないのであまり乗ってこなかったという話はまあ面白そうだけど…)までにえらい時間を食ってしまい、当初のプランも完全に狂ってしまった。

願掛けの媒体としての千羽鶴、禎子以前

 昭和17年の『合歓の並木』に、明白ではないが文脈的には明らかに、少女とその世話人の老婆が後者の健康と長寿を願って千羽鶴を作り、仏閣に納める描写がある。

近代デジタルライブラリー - 合歓の並木

 このように手作りした、あるいは既存品を加工した何かを願掛けや信仰の手段として神社仏閣に納める習慣としてはまず絵馬が思いつくだろう。また、日本全国に複数存在する、布で乳房をかたどったものを奉納する神社(例: 軽部神社)もこのカテゴリに含まれる。納経ないし寺社仏閣や仏像の建立も、明確な願掛けが存在しない場合、あるいは事後的なものである場合も含めてこのカテゴリに入れてもいいかもしれない。明確なモノが存在しないが、回数を重ねて神仏に頼る性質のある行動としては百度参り、千垢離祈願といったものが挙げられよう。

 千羽鶴をどのように宗教の場ではなく祈願の中心となる人に渡すようになったかについての考察があるが、これも呪術・信仰の道具を手元に置いておく、あるいは家や仕事場に所定のやり方で飾る方式の願掛けの多さを思えば、変質自体は極めて自然に起こりうると言ってもいいかもしれない。たとえばだるま貫通石、病や災害を防ぐ絵(例: コレラはしか地震)や札など。*1

なぜ鶴なのか

 絵馬に似ているのは分かったが、じゃあ昔の人は生の鶴を寺社仏閣に奉納してたとでも言うのかよお…と大半の人がお思いだろう。それに関しては、鶴が呪術的に力ある生き物とみなされていることで説明がつくと思われる。例として鶴の落とし穂伝説。類似の民話は沖縄にまで存在する。極めつけは、太古の皇族を登場させる佐美長神社の由緒であろう(後世の加筆であるとか、大歳神を強引に結びつけたとか散々な言われようだが)。

広島県むかしの話 ツルの落とし穂 筒賀村

鶴の落とし穂 | ふるさと魚沼 えちご川口

琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ : 鶴の穂落とし田 ~琉球沖縄の伝説

サムハラ神社 - Wikipedia

伊勢志摩きらり千選

 鳥類を神の使者か化身とみなすような伝承は他にも多いものの、鶴が特別な動物とみなされるようになった経緯もだいたい想像がつき、それは中国文化、とりわけ六朝文化の中で盛り上がりを迎えた神仙思想の影響である。

タンチョウ - Wikipedia

佐藤義寛のホームページ|第四房 吉祥館/第一室 中国の図像を読む

さらに時代が進むと、隠遁は神仙思想と結びつき、 多くの仙人たちの登場をうながすようになる。そして、ここに彼ら仙人の付属物・乗り物としての鶴、大岡氏の言葉を借りるなら「仙家の霊鳥」としての 鶴が誕生する。

(中略)

 そうした仙禽としての鶴が登場する代表的書物の一つとして『列仙伝』や『神仙伝』を指摘し得るが、 ここではその中から王子喬という人物の例を挙げよう。

王子喬なる者は、周の霊王の太子晋なり。好んで笙を吹き、鳳凰の鳴を作す。伊・洛の間に遊びしとき、道士浮丘公、 接して以て嵩高山に上る。三十余年の後、之を山上に求むるに桓良を見て曰く、「我が家に告げよ。七月七日、我を?氏山の巓に待て」と。 時至り、果たして白鶴に乗り、山頭に駐まる。之を望むも、到るを得ず。手を挙げて時人に謝し、数日にして去る。亦祠を?氏山の下、 及び嵩高の首に立つ。

 この王子喬のように鶴に乗って昇天・昇仙する仙人だけでなく、中には本人自身が鶴に化す丁令威という仙人まで現れる。

 六朝 - Wikipedia

道教 - Wikipedia

呪術あるいは宗教的行為としての平和祈念

 祈念してる時点で宗教じゃんというしたり顔の読者諸兄が目に浮かぶようだが、文化人類学における呪術論っぽいアレなので、はい。*2

 人類学における呪術と宗教の位置づけについてはいろいろ興味深い議論が存在する。存在しすぎてさらに話が長くなるので、ここでは手を抜いて「科学・宗教・呪術には本質的な区別はほとんどない」としておく。より正確には、反証可能性やらなんやらにまみれてきた科学は他2つとかけ離れたものになるので、そうした手続きやアイデアを欠いたものを「科学のなりそこない」とすべきであろう*3。そこからさらに、具体的な個別の集団や個人がどのように実践するかにおいて、呪術や宗教にはある程度の固有の性質を見出すことができると考えられている。

 デュルケムは宗教に対し、次のような定義を与えた。

Émile Durkheim - Wikipedia, the free encyclopedia

A religion is a unified system of beliefs and practices relative to sacred things, i.e., things set apart and forbidden--beliefs and practices which unite in one single moral community called a Church, all those who adhere to them.

— Émile Durkheim, The Elementary Forms of the Religious Life, Book 1, Ch. 1

 そして、究極的には社会自体の崇拝とみなせるようになるとも。一方でマリノフスキーは、宗教を集団的で特に直接的な目的を持たず、事が起こった後に儀式があることが多いものとし、呪術は対照的に具体的・個人的な動機に基づき、事の前に儀式を実行されがちであるとした。実際には、宗教に対しても社会学的アプローチでもって目的を推し量ることは可能だが「席替えで好きな子の隣になれるおまじない」だとか「大事な試合の前のゲン担ぎ」みたいな明晰さはないぐらいの話である。

 それならば、原爆犠牲者の追悼や祈念にまつわるあれこれのうち少なからぬものについて、どちらの定義でも宗教と呼ぶことができ、しかも既存の神道仏教(長崎の場合にはキリスト教も)の枠組みには位置づけを見出しにくいのではないか。マリノフスキーの本を読んでみればまた印象は変わるかもしれないが(プレミア価格の中古とkindleしかない。図書館にも入ってねえ…)。また、単に何か大きなイベントを記念して再発を戒めるだけならその辺の慰霊碑と何ら変わりないので、そこには決定的要素として聖なるものが、つまりタブーが必要であるが、まあ、その辺はまた細かく書きだすと下調べが必要になるし長くなるのでアレだが、戦争体験の継承と平和維持に関する議論がある種タブーの塊であることはいうまでもないだろう。前々段の秋葉市政での議論しかり、いわゆる「政治的に中立で理性的な」論者によるヒロシマナガサキ、あるいはより直截に憲法9条に対する批判であったり。一方では、とりわけキューバ危機以降の核武装肯定論にも一種の呪術的様相がある。*4

 

(とちゅう)

*1:徴兵や社会・経済構造の変化により郷里を離れる人が増え、本来なら地元ないし氏子・檀家として所属している寺社仏閣に納めたものが行き場をなくしたという仮説は思いつく。

*2:そもそも各種モニュメントのデザインからして、宗教的中立性を強く意識しながらも宗教/呪術的な意匠は明らか(例: 長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂参考)で、しばしばデザイナーも隠していない(例1例2)。

*3:科学と「なりそこない」の間にどう線引きがなされるかは観測者によって異なる。ある人には似非科学の範疇に入るものも、他の人にはwell-establishedな科学的事実であったり、そもそもすべてが曖昧に「科学的」とラベル貼りされていたりする人など。

*4:たとえばエマニュエル・トッドの日本核武装論。英国の例のように一層アメリカとの相互依存性(従属と呼ぶのが不適切ならば)が高まったり、ウランを中国かオーストラリアから輸入しなければいけなかったりといった点は無視できない。そして、存在感がなくなったからこそイラクイスラエルの両方に核技術を売り込むみたいな真似もできたのではないか。その中東の核不安がどういう事態を招いたかについては見てのとおりである。