シリア人男性が語る5年間
‘Five years ago, everything was going my way. Today, I’ve lost my brothers and my business’
支援団体Goalで働いているムハンマドさん(仮名・34歳)が語る、革命からの5年間。2011年5月の時点では4人の子供を持ち、4人の兄弟とともに家族のビジネスで成功していて、アレッポ大学のMA学生であり、英文学科卒の学歴を生かして副業で翻訳やチューター、ハイシーズンにはアレッポでガイドもやっていた。
最初のうち、特に生活に変化はなかったが、2012年の夏に自由シリア軍がアレッポに展開すると、それを理由に政府軍から空爆を受けるようになる。それから1年もしないうちに家、商店、工場すべてが爆撃され、年末には父を頼ってAl-Tabakaに移ることとなる。1970年代に始まり、ラッカ県屈指の評判のいい商人だった父であるが、間もなく病に倒れてトルコで入院し、2013年5月に亡くなる。父をラッカに埋葬するために遺体を運ぶ最中、初めてISISに遭遇し、革命の行く末にいわく言い難い不吉さを覚える。
13年の末ごろにはISISが自由シリア軍をラッカから駆逐し、主要な都市と周辺の町を占拠した。Al-Tabakaも支配下に入る。ムハンマドさんは、反逆う社とされた人たちが処刑され、生首が都市の広場に晒されているのを目にするようになる。そのうち、弟の1人がホムスで物品調達している際にロケット弾の攻撃を受けて命を落とし、ムハンマドさんはアレッポへ戻る意思を固める。父親亡き後、4人の女きょうだいと7人の弟、さらに父親の2度目の結婚でできた男女各2人のきょうだいについて年長の男性としての責任があったのだ。一家がAl-Tabakaを去った後、ISISがラッカとAl-Tabakaの営業しない商店の主を自由シリア軍のシンパとして糾弾し、奪略した金品を兵士に与える。こうしてムハンマドさん一家は再び無一文になった。2014年の夏であった。
支援団体や支援物資を配布する行政の手伝い、市民ジャーナリストなどとして働いた経験があったため、アレッポでも生活のためにそうした仕事を続けることにした。紛争が激化して撤退を余儀なくされるまでは国境なき医師団の入った病院で翻訳の仕事もした。トルコのキリスでシリア人学生に英語を教える仕事にも短期間就けたが、物価の割に給与が安いため家族を連れて移ることはできなかった。2015年の3月にGoalについての噂を聞き、6月に仕事を得た。
しかし9月にはまた1人弟をロケット弾で失う。他にも4人の弟が重症を負うか障害を持つかし、1人はまだ入院している。戦争開始以来25人の友人を失い、10回の引っ越しを余儀なくされた。もはや中東の春は遠い昔の出来事のようであり、首を突っ込んでくる海外勢力に、シリアの民への労りは一切見出せないという。
(とちゅう)