は?
はあ?
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
キモオタとフェミニストは相互に排他的な肩書きではない。まずは-10点といったところか。まさかお兄ちゃん、キモオタに女はいないとかフェミニストに男はいないとかなんて思ってないよね…?(知らない若い男性にお兄ちゃんと呼びかける中年女性bot)(若いか男か知らんが、前の文により後者の疑いは濃い)
誰がしたか(Laura Batesだったかな)正確にはどんな言い回しだったか忘れたけど、好きなフェミニズムの定義に「辺縁化されがちな女性のパースペクティブをアレすること」というのがある。これが(このいい加減きわまる記憶にもかかわらず)大好きなのはこれがまさしくフェミニズムに限らず、影響力のある者がない者を疎外する流れに加害者の側から取り組むことの恐ろしい限界を示しているということである。すなわち、加害者の反省や埋め合わせにフォーカスした途端「反省できる俺ってカッコいい」「こんなに埋め合わせしてる僕って超倫理的」といった言葉で飾り立てられた、貶められて無視されてきた者をさらに卑小に演出してみせるお立ち台が出現するのだ。そう、ちょうどこの引用のような。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。
ネタバレになるが、関心がもっぱら表現規制に偏るばっかりにこんな珍妙な、とても概論と呼べるレベルではないチョイスである。
ラディカル・フェミニズム
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
家父長制批判が入っていない。やり直し。
ここで、以前見たいいラディカル・フェミニズム入門にリンクを張りたかったが見つけられなかった。家父長制的価値観は自分の内にも強く根付いているのがむかつくという、多分マッキノンの発言と思われる一文がよかった。
具体例を伴わない、まあよくある藁人形論法。筆者の表現規制に偏った関心はこの時点ですでに丸見えなのも御愛嬌。
一応書いておくと、女性蔑視・暴力的な表現物(男性向けにマーケティングされないものも含む)と現実空間での差別や暴力の関連性については、後者があるから前者があり、全般的な表現規制によるセクシズムの改善はあったとして焼け石に水レベルというのが私の今のところの見地である。しかし、この点において漫画はともかく、ゲームについては一段違ったものとして見るべきであろう。具体的には、Anita SarkeesianのTropes VS Women in Video Gamesで指摘されるような点である。すなわち、高度に商業化した現代のゲーム産業においては、収益あるいは作品評価の最大化のためプレイヤーに適当なストレスレベルでゲームを遊ばせるというデザイン目標が設定される。その結果の一端として、女性キャラクターはしばしば徹底的といってもいいほどに都合のいい存在として作りこまれる(あるいは、都合のいい部分以外はぞんざいに投げ出される)。そうした表現が女性ゲーマーや性的少数者を興ざめさせ、あるいは暴力体験に関する不快な記憶を刺激して追い払えば、ますます異性愛男性向けのマーケティングは肯定され、加熱することになる。単体では一見セクシズム的ではないが典型的な例として、Bioshock Infiniteのエリザベスの設計に関するプレゼンテーションが参考になろう(これを久々に見ようとして、見つけた唯一の日本語記事がさらっとクソいタイトルなのがまた…)
リベラル・フェミニズム
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
(略)
どこから突っ込んだらいいのか悩むところだが、伝統主義的保守やら何やらと野合しない限り大概のフェミニズム思想はリベラル親和的であり、この項で挙げられた特徴を他のサブジャンルが持たないわけではない。なんとなれば、リベラリズムとは大まかにいえば個人の自由と平等の追及、世俗主義と国際協調であり、そのスペクトラムはフェミニズムに負けず劣らず広いからである。
せっかく表現規制に偏った視点で資料をつまみ食いしているんだから、当人の自称あるいは消去法的分類でリベラルフェミニストに分類可能な論者が表現規制やポルノについて何を言っているかについて、ちょっとでもここで触れておけば若干はマシだったと思われる。若干だが。
マルクス主義フェミニズム
出た、謎チョイスその2…!!
(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)
ここで具体的に出てくる名前がこれしかないんだけど、わざわざセクション設けるほどたくさんいるのこれ…?
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
あっなんか出た…と思ったけど誰? 種本は明らかになったけどやっぱり誰!? とりあえずその人本当にマルクス主義フェミニストに分類していいのか?
まさかとは思うものの、いわゆるネット用語の「サヨク」っぽい発言をしてるやつはみんな共産主義者でマルキシストだーみたいな雑な分類をしているのではないかという強烈な不安に襲われる。
どちらなのかはっきり新たなエントリで解説すべきである。
あと、表現規制の話題に重きを置いておきながらセックスポジティブも分離主義的フェミニズムの名前も出ないのは大きい減点ポイントであると言えよう。
補足2:男性差別
出ーたー
例え話を使うのって基本相手を自分より馬鹿だと思ってるよねと言われて、その通りだと思って以来例え話を使うのは控えているが、悪徳業者が被害者に訴えられて負けるのを悪徳業者差別と呼ぶのは適切とは思えない。ついでに言えば、アファーマティブアクションで自分が試験に落ちたと考えるマルク・レピーヌやバーバラ・グラターのような人々は、原因を自分のコンディション不良、悪天候や道路の混雑、自分が不得手な問題ばかりを出す出題者に求めてもよかったはずである。
家父長制について言及しなかったばっかりに、男性もまた家父長制の犠牲になりうるという論点がものすごくふんわりしている…(マッキノン本人の戦争に対する距離感がどうなのかにもよるが)
やっぱりこいつ「サヨク」の女性論者ひとからげにマルクス主義者扱いなのでは…
言うまでもないが、反戦・反暴力を標榜する論者ならば男性の兵役も肯定すまいし、そもそも兵役に就けることがある種の特権として否定ないし肯定されることもある。
「性の商品化」の法規制
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。
(略)
はたして現代人の何人が同意するか、そして例の発禁処分が下された時代の人々が理解できるかはともかくとして、ユリシーズの例の描写(知人女性の太ももを見て主人公(男性である)が公衆の面前で自慰行為に及んだ…と読めなくもない場面)にこの流れで「性の商品化」なんていうラベルが当たってると不適切な面白みがある(原文でもこんな感じだったのかもしれないが)。それはともかく、せっかく性の商品化の話をしてるのにポルノ俳優や性産業従事者の権利問題への言及がない。やりなおし。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
最後がまとも(男性おたく向け業界も、プロ・アマ問わず実に自主規制と自己検閲に満ちているものである。もちろん前述の海外ゲーム産業のように、多くがユーザへの希求力を高めるために試行錯誤の末施されるものである)なので一瞬許してしまうが、いよいよアレになってきた。
まず1つ。今までに無視されてきた女性の視点をコミュニティに反映させるという一点において、今まで空気のごとく流されていた(歴史を掘り起こすと意外とそうでもなかったりするのだが)「不愉快」を「不愉快」だと形容することができるというのは重要な到達点である。2つめは、そもそもこれはフェミニズムとは違うレイヤー(のみ)で起こりうるということだ。つまり対話の問題であり、公共圏の更新あるいは固定化である。最近の(全年齢向けアニメやラノベの悪口でないところの)ポルノがらみでない話題でいえばこの辺。3つめに、そもそもポルノ産業もそれ以外のゲームなりアニメなりも、繰り返し述べてきたようにユーザの快不快をきわめて重大にとらえた上で発展してきたものである。金を直接払うことはあまりないが、(しばしば意図せず)成果物に出くわすことは度々あるというカテゴリの「ユーザ」の好みが反映されうるものとして幅広く参照される状況は、それらが無視されてきた程度と期間を考えるに大きな変化の引き金になりうる。しかし結果として生じうる、あるいは生じた変化の内容について検討する以前からひとからげに変化を問題視する、あるいはそれらの「ユーザ」の望みを妥当性を欠くか非倫理的であるとする態度は、まあ控え目にいって公平さを欠く。4つめに、マッキノンはおそらく「性の商品化」と訳せるフレーズを使ったことがないのではないか。上野千鶴子も、少なくとも継続する中核的な概念、主張のテーマとしては使っていないように見える(引用部自体が書籍の性質上他人の論への言及であるようだから当然か)。これを書いた人物には「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいように見え
てしまうのは、単に名前を挙げられた2人の論者がそもそも己の主張の核に、少なくとも一貫した使い方をされるタームとして「性の商品化」なる言葉を使ったことがないからに尽きるのではないか。結局、のちのパラグラフであと一人永田えり子の名前が挙がるのみであり、彼女がおそらくこの文章で直接関連付けられた中では明確かつ確実な「性の商品化」論者である(そして、彼女の著書内では与えられていたかもしれない定義については紹介がない)。万が一推測が事実通りだとすると、こんないい加減な文章を真に受けてブックマークコメントで賛同して何か言ってる面々が非常に気の毒になってくる。こんな具合に半分寝かけた頭でチェックしてざっと4つもひどい穴があるんだけど、本当にどういうことだ。
「不愉快」による法規制の正統性
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
同じネタの使いまわしになってしまうのが心苦しいが、フェミニズムというより法や公共性の問題として議論されるべきであろう。
(totyuu)